| 亜米利加 |
| 2000年 |
| 1968年(昭和43年)明治大学の学生時代に米国へ行った。それもギリシャの客船で。 当時、毎日新聞社の看板記者である大森実氏が居た。ベトナム戦争で勝っている米国を叩いて米国から圧力が掛かり、毎日新聞社を辞めた。その後、「東京オブザーバー」と言う新聞社を作った。 その頃、知人のお父さんが大森実と友人だった。カルフォルニア大学バークレー分校に行く大森実氏主催のイベントがあって参加することにした。それもギリシャの客船で。バークレーでの夏期講習と言う名目であった。 当時、アンチ米国であった大森氏が「今の米国を見よう!」という言葉を発したのが合点がいかないが、「今の強い米国を見ておけよ!」と云う事であったのだろう。 マルガリータ号というギリシャの客船に乗り、太平洋を横断して片道26or27日掛けて行ったのだ。帰路も同じだ。 当時、初任給2万円くらい。この渡航費が38万円だった記憶がある。初任給の19ヶ月分の渡航費だ。今20万円が初任給だとすると380万円と云うことだ。また1日のバイト代が700円〜800円くらいだった覚えがある。1日1000円という夜間土木作業のバイトもあった。 ベトナム戦争で亡くなった兵士の身体洗いのバイトが10,000円/日と聞いたが、誰もやったことがある仲間はいなかった。うわさ話だけだったと思う。 昭和39年の東京オリンピックが終わり、日本経済成長は右肩上がりに登って行こうとする頃であった。 まだ外貨の少ない日本では海外渡航の制限があり、外貨持出も制限があった。1000$までだったと思う。100$を替えた。36,000円だ。これだけでも日本では2ヶ月間生活できる状況だった。 JR中野駅前の陸軍中野学校の跡地前のアパートに寝起きをしていたけど4.5畳に小さな台所がついて家賃は4,500円だった。外貨に替えられない分を日本円で持っていった。 船の上での生活は、思いもよらない素敵なモノであった。船上生活はこれだけで一冊本が書けてしまうほどでだ。 20数日後、金門橋(ゴールデンゲエートブリッジ)は早朝、しっかりとボクたちを迎えてくれた。 サンフランシスコ(桑港)に滞在した時、驚きのほうでは「すげぇ!、おお」、悲しみのほうでは「えぇ〜!」の連発だった。 1ドル=360円というのは日本の中でのレートであって、サンフランシスコでは1ドル=400円、ロサンゼルスでは1ドル450円と云うのが、普通の銀行での為替レートだった。日本円が全く通用しないのである。全くと言って価値がないのである。 昼飯のハンバーガーとコーラで2ドル50セント。日本で1日バイトして1,000円のバイト代金を米国に持ってきても450円の為替では昼飯も食えないのだ(泣)。日本は凄く貧乏な国だという実感を持った。 米国でのバイトは確か1日15ドル前後だった記憶がある。バイトをするほど期間の余裕が無かったけど。15$を日本に持って帰って、円に替えれば5,400円。米国で4日バイトすれば、日本での1ヶ月の生活費は稼げたのだ。 今、中国とか東南アジア諸国の人達が日本に来て働いているのと全く同じだ。 世界一歴史のある商売に売春がある。世界中途絶えることは無い商売だという。一つのレートの例であげるが、当時、サンフランシスコで44ドルと聞いた。とてもじゃないが行けない。1日2ドルのバイト(日本で)をしても22日バイトしないと行けないのだ(泣)。 人と会って話をすると 「Chinese?」と何度も聞かれた。 「No Japanese」と応えると 「Japanese? … Japanese…」と即座に思いついて貰えない様子であった。 もの凄く強い米国、貧乏国の日本をヒシヒシと感じた。この3ヶ月間の思いは、その後のボクの考え方を決めるのに十分であった。 桑港(サンフランシスコ)では、その時、ダスティンホフマンとキャサリンロスの映画「卒業」をやっていた。今でもサイモン&ガーファンクルの「スカボロフェアー」と「ミセス・ロビンソン」が流れると「貧乏国、日本」を思い出す。 その後、何年かたって日本製品が米国を駆逐し始めた。安くてモノが良い日本製品の排斥運動が米国で始まった。ニューヨークのグリニッジビレッジ公園で、東芝のトランジスターラジオをデカイハンマーで壊す映像がTVに流れた。 歴史は繰り返す…のか!。 |